第参話 パリ・モデル・女優になってからのこと

高校の卒業式を終えた数日後、パリに向けて出発の日となった。きっかけは、一枚のスナップ写真。当時の姫をスカウトした所属事務所の社長が撮った、姫の高校生時代の写真が巡り巡ってパリに行き、ベネトンのワールドキャンペーンの日本代表モデルに選ばれパリにいく運びとなったのだ。

この時が姫にとっての初海外であり、モデルデビューでもあった。撮影は一週間。カメラマンのオリビエロ・トスカーニをはじめとしたオール外国人のスタッフ、マネージャーや付き人シャットアウトのスタジオに缶詰の中、共用語は英語とイタリア語のみで行われた撮影の感想は、意外なことに「すごく面白かった」とのこと。

姫ともう一人の日本代表のメンズモデル以外、その他のモデルは世界各国からやってきた様々な人種のモデルだった。

「当時のことは今もすごく鮮明に覚えてる。スタジオまでのパリの街の風景とか、撮影時のこととか、その時自分が考えてたこととか、メイクルームでの雰囲気とか、細かいディテールとか鮮明に全部。

英語はそんなに細かいところまでは分からなかったけど、一緒になったモデルはみんな同じ年くらいの子達で、言葉はわからなくても雰囲気でなんとなく気持ちは感じ取れたし、それは多分、いろんなことに通じる真理だなと思った。

いろんな人種のいろんな場所から来た人たちと、短い時間だったけど同じ時間を過ごせて、すごく貴重な経験だなと思うと同時に、改めて世界の広さを感じた。撮影自体は初めてに近かったけど、だからこそ、余計なことを考えず楽しめたし、モデルとして自分がどうこうということは置いておいても、単純に、パリに行ったことでモノを創る楽しさの根本を知ることができた。

その一方では冷静に、これが終わって日本に帰ったら地元で入学式だなとか普通に思ってたし、元々モデルや芸能界に自分から興味を持って入ったというわけではなかったから、これはこれ、明日からはまたいつもの日々という風に、そのあとも自分がこの世界でやっていくとは思ってなかったけど、なんとなく、今後の運命はこれで変わっていくんだろうなって予感はしてたかな」

撮影が終わって日本に帰るまでの数日間は、出来る限りパリの街を歩き回った。

「ルーブル美術館、オルセー美術館、ベルサイユ宮殿にエッフェル塔、セーヌ川クルージング、ノートルダム大聖堂、思いっ切りおのぼりさんコースだけど、出来るだけ見たいものをみようと思って。もう一生来れないかもしれないと思ったし、できるだけ」

その時に見たルーブル美術館のサモトラケのニケの像は、ベイビーズもご存じ姫の一番好きな彫刻である。

「とにかくね、すごい。佇まいが。生きてる感じがするっていうか、躍動的で、気高くて神々しいけど、決して突き放される感じじゃなくて、近づけばそこにちゃんと行けるような、受け入れてくれるような、ちゃんと血の通ってる感じがする。そういうのって、いいよね。突き放されるほど完璧にすごいものは、単純にすごいなとは思うけど、思い入れは持てないし、そんなに美しいとは思わない。

ニケの像はところどころ欠けてるんだけど、でも、それは美しくないってことにはならないと思う。傷ついた姿を取り繕わずに、精一杯翼を広げて飛び立とうとしてる感じがね、いいんだよ。それでいいじゃんって、思えるっていうか。人がどうでも、あたしはこんな感じで生きていけばいいじゃんって。なんか勇気をもらう感じっていうか、立ち戻れる感じっていうかね。」

その後も仕事でパリを訪れる度に、必ずルーブルに出向き、当時を思い出しながら像を眺めているのだそうだ。そんな姫の未来の新婚旅行先の希望はパリとロンドン。「パリで旦那様と一緒にニケの像を見て、ロンドンのヴィヴィアンウエストウッドで両手いっぱい買い物して帰りたい」のだそうだ。

はじめて行ったパリで、その後の人生を予感する様々な経験をした姫。

パリから帰った春休み明け、予定通り姫は地元の学校に進学。その年の秋、パリで撮影されたベネトンの世界広告は一躍話題になり、日本での活動を開始。学業とモデル業の狭間で、多忙な日々を送っていた姫は、パリでの撮影からちょうど一年後の春、地元の学校を退学し上京することとなる。

活動の拠点を東京に移した姫は、瞬く間にトップモデルへと登り詰め、雑誌、コレクション、数々の広告等、ロリータからモードまで、年齢や分野を問わず表現できる稀有な存在として注目を浴びる。

時はアジアンモデルブーム、その時代の波に絶好のタイミングで現れたと言っても過言ではなく、モデルとしの活動はわずか四年ほどだったが、その間取り上げられた媒体は数えきれないほどに及んだ。

1997年、トップモデルとして活躍していたまさに絶頂の時、突如としてモデルを休業それまでのトレードマークだった「姫カット」と呼ばれる長い髪をバッサリと切り落とす。

理由は自分のやりたいこと、すべきこと、これからのすべてを見つめなおしたかったから。

「あのまま走り続けていたらヤバかった、気が付いたらとんでもないところに立っていた気がした。周りからはもったいないとも言われたけど、もう一度立ち止まって考えなきゃいけないと思った。そのためには一度全部リセットするしかなかった」

と、後に姫は語っている。

その半面で、当時を振り返り、こうも言っている

「あの当時は、自分が考えていることを、ちゃんと周りの人に理解してもらえるように、言葉で説明できるほど私は大人じゃなかった。18歳からこの世界に入って、自分のことに精一杯で。ちゃんと周りの人達の意見を聞いたり、腹を割って対話する術や余裕もなかったし、日々のめまぐるしいスケジュールの中、日々のアウトプットに精一杯で、今考えたらもっと上手なやり方があったんじゃないかと思うところもある。過ぎた過去のことを思ってもしょうがないけれど、今思い返すと辛くなることもある。でも、だからこそ、これからは同じ思いはしないように、させないように前を向いて、ひとつひとつ、周りにいる人々と向かい合って対話して、進んでいきたいって思ってる」

その後、以前から公私ともに交流のあった世界的フォトグラファーNAOKI氏のもとで写真を学び、自ら創作した詩と写真を融合した作品制作やアーティストとのコラボレート作品にも取り組むなど、写真家や詩人としても活動。

1999年には青山ブックセンター、福岡の美術館などで、言葉と作品を融合した個展、椎名英姫写真展「No filter Only eyes〜愛の在処」を開催。ちょうどその頃、行定勲監督との出会いにより、主演映画「OPEN HOUSE」(監督 行定勲 原作 辻仁成)にて女優デビューを果たす。その後は映画界を中心に女優として数多くの新鋭監督の作品に出演。

今や伝説の作品となっている監督:三池崇史 原作:村上龍の「オーディション」での演技は、その評価を日本のみに留まらず、世界中に多くの熱狂的なファンを生み出した。

ニューヨークタイムズではヒッチコックの映画と共に唯一のアジア映画としてランクインするなど、その存在感は10年以上の時が経った今も尚語り継がれ、各国の映画祭でリバイバル上映がされ続けるほどの伝説となっていった。

そして時を経て2008年、今やしいなえいひの存在を語るには外せないであろう、西村喜廣監督との出会いにより、「東京残酷警察」での女優復帰作を皮切りに、再び各国の映画祭の賞を総なめにするなど、海外での更なる高い評価と、アジアのホラークイーンとの名を不動にし、その名を世界に轟かせていった。