第八話 姫の武者修行への旅
姫にとっての武者修行の旅。
それは、姫にとっての新たな日々の始まりでもあった。

「会社名は、迷惑がかかるといけないから伏せるけど、名前を言えばみんな知ってる、
かなりちゃんとした堅い会社。そこに、ショールームの総合受付みたいな形で雇ってもらって。
面接も、ちゃんとスーツを着て受けた。揃いのリクルートスーツなんてものは持ってないから、
なんか適当にクローゼットにある黒いジャケットに白シャツとスカートを組み合わせてだけど。

その会社の店長さんと、マネージャーさんに会って、11月の頭から、
働かせてもらえることになって。就業の初日はもう、ドキドキとハラハラの連続で、
ちゃんとやれるのか、すごい不安だったけど、とにかく、一生懸命頑張ろうと思った。
わたしみたいに、この世界しか経験したことのない世間知らずは、
なにかの資格があるわけではなく、今までの経験や経歴なんて、それこそ、
なんの意味もないぺーぺーなわけだから。当たり前だけどね。

だから、とにかくわからないことは何でも聞いて、一生懸命やろうと思って、
お茶くみから、掃除から、何でもやった。私以外の人は、みんな正社員の人達で、
わたしみたいにアルバイトは、一人しか居なかったんだけど。けれど幸いなことに、
一緒の職場の人たちは、とてもいい人達で、その中でも一緒にショールームで働いてた
「おふじ」って女の子は、すごく気立てのいい子でさ、最初はろくに電話も取れず、
会社名を名乗る前に、「もしもし」とか言ってたわたしを、根気よく指導してくれて。
だからひとつずつ、勉強だと思って、一生懸命メモを取りながら、
1日中フロアを走り回って、働いた。」
 
慣れない環境で、辛いことはなかったのかと聞くと、

「もちろん、いいことばかりじゃなく、お店だから、
お客さんに苦情の電話でしこたま怒られたりとか、いろいろあったけど、
どこの世界だって、大変なことはあるわけだし、
こっちの世界ではできてこっちの世界ではできないなんてことも無いと思ってたから。

幼稚園からやり直す感覚でというか(笑)まあ、とにかく、社会人一年生であることに
変わりはないわけだし。気分はパンダ幼稚園、紫組所属、年少パンダさんな感じでね。
そりゃあ時には、どう考えても理不尽だなあと思うことでお客様に罵倒されたりとかすると、
一瞬心の中で「誰に向かって言ってんだあああああ!!」ってヤンキーパンダが
お目見えしそうになったことも無くはなかったけど(笑)でも、すぐに、
「ああ、俺に言われてるんだ。そうだね。オレオレ。俺が悪いんだよごめんなさい」って、
切り替えられたよ(笑)それこそ、そこでキレたら終わりだし、
幼稚園退園御免状出されちゃうからね。イヤだよ。退園なんて(笑)

これもすべてありがたい経験だと思って、みなさんのお役にたてるように、
とにかく頑張ろうと思って。最初の3カ月くらいは、覚えることも多くて、
慣れるまでは大変だったけど、徐々に仕事を捌けるようになってきて、別の部署の人から、
外出の際の伝言などを預けてもらったりすると、ああ、認めてもらえたんだなって、
すごくうれしくなったりね。

必要とされることが単純にうれしいというか、ほんとに、ささいなことが
うれしかったんだよね。会社に入って2.3か月後に、お客様からの電話で、
わたしの対応が良いって評判になってるよって部長から言われたときは、なんていうか、
すごい、こんな自分でも役に立てたんだなってしみじみと感激した。

それでもわたしのできることなんて、たかが知れてたけど、
だんだんショールームの飾り付けのデザインとか、任されるようになってきて、
お客様に振る舞うお飲み物のメニュー表に、密かにパンダーマンのイラストを忍ばせたり、
キッズルームの塗り絵に、ドラえもんの塗り絵と一緒に、パンダーマンの塗り絵を
入れてみたりして(笑)徐々にね、そんな遊び心も沸いてきたよ(笑)
もちろん、それをパンダーマンだと気が付く人は居なかったけど、
子供たちからはかなり好評で、気の利いた社員の人なんかは、
子供が「こんなキャラ見たことない」って言うと、
「うちのお店の人気キャラなんですよー」なんて言ってくれててね、笑った。」

ちなみにその時姫が作ったパンダーマンのポップや塗り絵は、
今もそのお店に置いてあるという。

「なんか、うれしいよね(笑)私が居なくなった後も、パンダーマンが、
愛され続けてるって感じで。こんなこともあろうかと、ポップの写真は記念に
携帯の写メにおさめてあるから、今度機会があったらうたたねにでもアップして
ベイビーズにも見せるよ(笑)」

そして働き始めて3か月後、すっかり姫のあだ名が「パンダさん」に定着したある日、
仕事が終わって帰ろうと準備していた姫を、同じ部署の人達が呼び止めた。

「パンダさん!パンダさん!って言うから、なんだろうと思って部屋に行ったら、
バースデーケーキが用意されてて。おふじと、同じ部署の男の子たちが、
「いつもありがとうございます」って、ハッピーバースデーを歌ってくれて。
もう、びっくりして、泣いたよね。うれしかった。
そうだあたし誕生日だったって気が付いた(笑)まさか、そんなことがあるなんて
思ってもみなかったから本当に驚いたよ。みんながお金を出し合って、
わたしの誕生日を祝おうってことになって、内緒でやってくれてたみたいで。
その時のケーキの写真は、その日のうたたね日記にも載せてあるよ。
事情は話せない状態だったけど、せめてベイビーズのみんなに、姫頑張ってますよ、
誕生日を無事迎えられましたよって、報告したかったから。」

そうした今までとは違う日々の暮らしの中で、
姫の心の中には何があったのかと聞いてみた。

「もちろん、そんな日々の暮らしの中でも、ベイビーズの存在や、創作への気持ちは、
忘れることなんてなかったよ。綺麗な空を見れば、この空の向こう側にいるベイビーズの
ことを思ったし、ビジュアルバムへの消えない想いとか、ひとしきり考え始めると、
居ても経ってもいられない気持ちになった日も少なくはなかったよ。
日々の暮らしの現実と、その向こうにある本来の思いとのバランスを取るのは、
決して簡単ではなかったけどね。だからこそ、いつかは、自分の本職に対する決着を
つけなければいけないと思っていた。」

そんな頃のことだった。ある日いつものように働いていた姫に、お店に訪れたお客様から
こんなことを言われたのだという。

「お店の外に出て、車の誘導をしていた時かな。いつものように大きな声で、
「オーライ!オーライ!オッケーでーす!」とか言って(笑)
お客様を駐車場に案内していたら、車を降りてきたお客様から、
「すいません、あの・・失礼ですけど、しいなえいひさんじゃないですか?」
って言われたことがあって。びっくりして、思わず、就業中だったし、
お店に迷惑かけちゃいけないと思って、「あ・・違います」って言ったんだけど。

そしたらお客様が「そうですか・・・そうですよね。まさかとは思ったんですが、
でも、あんまり似てるんで。どうしても聞いてみたくて。知りませんか?
しいなえいひさんっていう、福岡出身の、女優さんが居るんですよ。
僕、彼女の映画のファンで、ほら、前はモデルさんとして活躍してた人で、
知りませんか?海外でも人気の、素敵な女優さんなんです」って。

もう、ほんとにびっくりした(笑)思わず、「そうです!あたしです!ありがとう!」って、
お礼を言いたい気持ちだったけど、言えなくて。
今考えたら、あの人に、謝りたい気持ちなんだけど、でもその後、
そのやりとりを見てた部長さんが、「やっぱり、わかる人にはわかるよね」
って私に言ったんだ。そしてその時に、ああ、知ってて知らないふりしてくれてたんだなって、
そう気が付いた。

うれしかったよね。普通の一人の職場の部下として、今まで扱ってくれてたんだなって
そう思ったから。一緒に働いてる人たちには、最初に気が付いたおふじ以外は、
自分の素性について最後まで語ることはなかったけど、ああ、ますますこれから頑張って、
ちゃんとここで働いた経験も、いつか自分がしいなえいひとして活動を再開した時のために、
フィードバックして行けるようにしていかなくてはいけないなと思って。

この職場に就職する前に、ベイビーズには、私はどこに居ても、何をしていても、
心はみんなと一緒ですってうたたねで言ったけど、ほんとにその通りで、その時は、
ここを退職した後のことは何も決まっていなかったけど、いつか訪れるその時のために、
ベイビーズに恥ずかしくないように、今を精一杯生きなくては、ってそう思ってた」

そして無事、無遅刻無欠勤で勤め上げた2013年の6月最終日、
いよいよ働いていた職場を退職する日が来た。
姫がここで働き始めて、ちょうど8カ月が経った日のことだった。

最終日、就業を終えた姫は、制服から私服に着替え、ロッカールームを出た。
フロアには、それまで一緒に働いていた社内のみんなが集まっており、
紫色の大きな花束と、皆からの寄せ書き、お疲れ様でしたという激励の言葉で
姫を送り出す皆の姿があった。
店長に促され、姫は皆に最後の挨拶をした。

「みなさん、8か月間ありがとうございました。何もわからないわたしを、
あたたかく迎え入れてくれたこと、心から感謝します。本当にどうもありがとうございました」

フロアには、大きな拍手が鳴り響いた。紫の花束と一緒に渡された、
みんなが少しずつお金を出し合って選んだという紙袋のプレゼントの中身は、
姫の大好きなヴィヴィアンウエストウッドのニーハイソックスが入っていた。