しいなえいひ補計画
~ 最終章 ~
ハローベイビーズ+ プロフィール しいなえいひ
解体新書+
うたたね日記
言葉ヒメゴト〜
ハローベイビーズ + ハローベイビーズ 2010


ハローベイビーズ。はじめましての皆様、ハジメマシテ。
そして、おひさしぶりの皆様、ご機嫌いかが?
あなたたちのところへ、わたしの声がまだ届くのだとしたらうれしい。

思い起こせばあれから幾年月。
何もなかったといえば、嘘になる。

最初は真っ暗な深海。
そしてそのうちおんなじところをぐるぐる回って。
これが結構長い。
相対性理論でいうところの、一方の時間だけを、ずっと過ごしてる感じ。

地球が回る千倍くらいのゆっくりなスピードで、
一回りして、ふた回りして、わたしはようやく時間が流れてることを知った。

そう、この世は諸行無常。自分だけ時間を止められないんだった。
そんなことはわかっていたはずなんだけども。
意外と理解と気持ちは、同じ速度にならないものよ。

世の中と自分の、時計あわせがやっとこさ済んだころ、
気がついたらわたしもすこし、歳をとっていました。

遠い昔、わたしはこうして自分の言葉を綴っていた時期があった。
ブログという用語もまだ無かった頃のお話。

けれどもあの頃のわたしは、
ほんとうに伝えるべきことは、最後ですりぬけるかのように、
肝心なことは、なにひとつ言えないままだったように思う。

そうせざるを得ない理由はいくつかあったけど、
誰のせいでもない、私が選んだことだから、
いいわけはすべきではないと、そう思う。

その結果、様々なことは少しずつ真実から遠ざかっていった。
何かを言えば、すべては曲がりくねって色を変える。
きっとこんなことを考えているんだろう、こう考えたからああなんだろう、
そのほとんどが事実とは違っていた。
まるで出口の無いパラレルワールドにいるみたいに。

そしてある時から私は、
自分の言葉を綴ることをやめました。

言葉が言葉として機能しないならば、私の綴る言葉に意味は無いはず。
それが一番いいと思ったから。絡み合った糸を、解く方法などどこにもなくて、
心も言葉も閉じたまま、静かに消えてしまいたいとさえ考えていた。

深い深い海の底で、見えた景色は、白黒の紙芝居みたいだった。
何が悲しくて、何がうれしいのかさえもわからないような時間だったけど、
時折差し込んだかのように錯覚するひとすじの光は、
辺りが暗い分だけとても綺麗に見えた。

これまでの経緯が、正しかったのかどうかなんて、今もわからない。
あのときがあったから今があるんだよと言う、
ありがちな予定調和は興味が無いし。

でもそんなことはもう、どうでもいい。

私に残された時間があとどのくらいあるのかわからないけれど、
ここではできるだけ、自分の言葉でほんとのことを話したい。
何をうれしいと思うか、悲しいとおもうのはなぜか、
好きなものはこんなことで、苦手なのは実はこんなことで、
ほんとはそんなにいい子でもなくて、けっこう不良だとか。

無論、どこぞの高級ブランドが行きつけで、飲み慣れたワインはこんなのみたいな、そういう話はわたしには、できないけど。

女優という職業として考えると、何を考えているか、
私がどんな人かなんて、わからないままのほうが、
純粋に作品を楽しめていいのかなと長い間考えてきたし、
今でもその気持ちが無くなったわけではない。

けれども誰かのペンを通せば、それは私の言葉ではなく、その人を介した
私になる。役を演じれば、その役柄によってその姿は様々に変化する。

わたしがこの場所にいる以上は、それはそれで、まぎれもない私自身の
姿であるし、考え方によっては、自分で考えている自分の姿がすべての正解だと言い切れないのも事実だ。

けれどメディアは、時として表層的で曖昧なイメージの世界で形成されることがあるのもまた事実だと思う。

だとすれば、わたしは何を選ぶべきか。

作品の中でそれを昇華し、伝えてゆく。
長い間私は、それが正解なんじゃないかと考えてきた。

けれども、それも違うのかもしれないと思うようになった。
なぜなら、役を演じるときは、そのことだけを考える。
普段のわたしは言わないけれど、この役柄のこの気持ちだから言えるし
理解できる、というような。
その他の作品を作るときも同じ、
ナシがアリになったり、アリがナシにもなる時も大いにあるし、
その作品の世界観においてのベストを考えているから。
ある意味自分はどうでもいいというか、自分を作品においての
駒として考える場合が私の場合は多いから。

観念的に考えれば、それもある種の自身言語変換に相当するものなのかもしれないとも思うし、
作品に関わるのは私自身だから、日々の感覚や理念が
含まれた私自身の匂いみたいなものが、作品に無意識にでも投影されるのは事実だと思うけど、自分の言葉を言葉として表現するとしたら、
それはやっぱり、自分で選んだ言葉でこうして話すことなんじゃないかな、
と、そう思う。

事実誰かに会うときに、自分自身とのあまりのギャップに驚くことがある。
私の元々の雰囲気が、そういうイメージにはまりやすい匂いを漂わせて
いるからだろうか。それもそれで面白いけれど、
時々、わたしはそんなにお姫様でもないし、
逆にそんなヒトデナシでもないよと、言いたくなるときもある。

決めるのは最終的には私ではなくて、私以外の他人だと、常々考えているけど。

長い長い日々の先に、気がつけば、思ったよりも遠くに来てしまったみたいだ。
わたしはずっと、同じところにいるのに。

もしもわたしが明日死んだら、
きっとわたしはものすごく後悔するような気がする。
私を助けてくれた貴方たちに、まだちゃんと、ありがとうも言えてない。
心配させたままで、置いてけぼりにさせたままで、
逝くことはできない。
様々な作品を重ねていく中で、それを純粋に楽しんでもらえる
存在になるためには、わたしが何者なのか、もう少しわかりやすい
ほうがいいのではないか。
そのためには、自分の言葉で話そう。
いろいろと考え、そんな答えにたどり着きました。

ほんとうならば、こういう形じゃなくて、
ひとりひとりにちゃんと会って話せれば一番いいのかもしれないですね。
わたしのこと好きな人も、そうでない人も。

そうすれば、ちゃんと目を見て話を聞いてあげられるし、
疑問にも、自分の言葉で答えることができる。
その内容を知ることが、たとえ私にとって心痛めることであったとしても、
対話できないまま何も解りあえないでいるより、
向かい合える分だけずっといいから。
けれど、それはとても難しいこと・・。
だからせめて、こうして少しずつでも自分の言葉を話すことで、
出会うべき人々に、ちゃんと出会えたらいいなと、そう思います。
そして私自身も、自らの、こころのカケラを拾い集めるべく
ここからもう一度、旅に出ようと思います。

ちりぢりになった言葉を。記憶のかけらを。本来還すべき場所へ。
最後にその姿が、どんな色に見えるのか、今はまだ、わからないけれど。

そして最後は、あなたに笑ってもらえるように。

わたしにもしも、まだほんのすこし力があるのだとしたら、
これはその、最後の禊(みそぎ)だろうから。

何かの縁で、ここで出会ったしるしに。
これから出会うかもしれない、誰かへ。
まだどこかで、私を忘れないでいてくれた、大切な人々に向けて。

一応私の職業は女優らしいけど、それはここではあまり関係がないことだと思う。
それよりももっと、話しておかなきゃならないことが、
あるような気がしている。

一度にそれを伝えることは難しい。
だからこの場所で、ひとずつ伝えていけたらいいな。

それでは皆様、紙芝居のはじまりはじまり。
明日は雨が降るそうですが、どうか心配なさらず。
わたしはいつでも、この場所にいますから。


しいな・えいひ







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special thanks : photographer NAOKI